熊谷うちわ祭の歴史

 『蒔(ま)きものは熊谷のうちわ祭まで』などと季節の暦にもうたわれるなど、昔から人々に親しまれ生活の中にしっかり根をおろした熊谷うちわ祭は、文禄年間(1592年〜1596年)京都の八坂神社を勧請(かんしょう)し、現在市内鎌倉町にある愛宕(あたご)神社に合祀(ごうし)される八坂神社のご祭礼で、熊谷の八坂神社は京都八坂神社の末社にあたります。
 
この祭りは、平安時代貞観11年(896年)疫病流行の時、日本六十余州にちなんで66本の鉾を立て疫病退散の祈願をした祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が夏祭りの形態となって全国へ広まったものの一つで、祇園、八坂祭、天王さまなどと呼ぶ人もいます。
 熊谷の夏祭りの記録がはっきりと文書に出たのは、寛延3年(1750年)で、もとは各寺院ごとに別々に行っていたとあり、同年4月に町民から宿役人に願い出て許され、以来各町内一斉に行うようになりました。参勤交代の大小名も祭典中はしばしば通行止めとなり、仕方なく熊谷堤を往来したといいます。さすがの大小名も八坂神社の祭礼には一歩遠ざかって通った訳で、当時の町民の得意さは今も語り伝えられています。 
「赤飯」から「うちわ」へ
 天保時代(1830年〜1844年)が祭りの中興といわれ、祭りの日各戸で赤飯を炊いて疫病を除けるといった風習は今も残っていますが、商店では祭り期間中買い物客に赤飯を振る舞った事から、熊谷の「赤飯振舞」は祭りの名物となりました。
 「うちわ祭」の起こりは、この手数のかかる赤飯の代わりに、泉屋横町(現在の市内筑波と本町の境付近)の料亭「泉州」が、江戸日本橋堀江町一丁目伊場仙で買った渋団扇を客に振る舞ったところ評判となり、それに習って他の商店でも渋団扇を振る舞いはじめたのが始まりです。そして、「買物は熊谷のうちわ祭の日」と誰と云う事無く口の端にのるようになりました。事実三銭の買物客にも五銭の買物客にもうちわを振る舞った為、その評判は大変なものでした。祭りの時には、近在の農家の人達が祭り見物をかねてどっと買物に出て来たといいます。そして、買った物を入れるためにザマ(籠)を背負い、その籠に貰ったばかりのうちわを沢山さして得意げに祭りを見物していたものだそうです。
 現在でも、うちわはこの祭りに欠かせないもので、祭り期間中御仮屋(おかりや)でお参りをしたり、市内の商店で買物をすると今でもうちわが振舞えられます。
 こうして疫病退散祈願に始まったこの祭りも、いつしか五穀豊穣、商売繁盛の祭りともなっていったのです。
神輿祭から山車祭へ
 明治24年、第二本町区が東京の神田祭で使われていた山車(だし)を神田新石町一丁目より当時のお金で500円を払って購入しました。
 熊谷市指定有形文化財となっているこの山車は、現在でも市内を引き廻されています。それ以後、各町内でも山車や屋台を次々新調して、熊谷の祇園祭は神輿祭から山車祭へと変貌しました。
昭和8年現在のような祭りになる
現在のような祭りの形で行われたのは、昭和8年に市制施行を記念して行われてからです。昔から祭りを行っていた五ヶ町(現在の第一本町区、第二本町区、筑波区、仲町区、鎌倉区)と、それ以後祭りに参加した銀座区、弥生町区、荒川区を併せた八ヶ町で7月21日から23日に行われていた祭りと、7月14日15日に行われていた石原村(現在の石原区と本石区)の八坂神社の祭りと統合されて、期日も現在のように7月20日から22日となりました。
 しかし、この祭りも戦時中は一時中断されました。そして、終戦前夜には日本で最後の戦災を受けて市街が東西に渡って焼失しました。この時に、民家の蔵に保存されていた昔の祭りの様子を知る記録や、重さ200貫(975キログラム)もあった立派な神輿、そして鎌倉区の屋台などの祭りに貴重な財産までも焼失してしまいました。
昭和21年には祭り復活
 こうした被害にも関わらず、いち早い復興の中翌昭和21年には、市内本町の四つ角に仮殿を建て祭神を遷座して、形ばかりではありましたが祭りは復活しました。昭和22年になると、まだ現在のように山車屋台を引き廻す訳にはいかず、水引幕や人形を飾っておく程度のものでした。しかし、お囃子だけは戦前から頼んでいた近隣の囃子連を呼んで懐かしい祭り囃子が久しぶりに熊谷の市内に響き渡りました。
 いよいよ昭和23年には、現在のような組織だった祭典を行えるようになりました。年番町は筑波区、総代長(昭和32年より大総代という呼び名)は岩下辰蔵氏でした。

日本万博にも出場して、年々盛大に
  そして関東一の祇園祭へと
 その後は、年々と祭りも盛大に行われるようになりました
 新たに、大正時代末期に町の中央(弁天町通り・べんてんちょうどおり)から現在の所に移転した伊勢町区、そして昭和55年より桜町区も祭りに参加し、現在山車5台、屋台7台の12ヶ町が祭りに参加しています。
 昭和45年8月には、大阪で開催されていた日本万国博覧会の『日本のまつり』に出場し、京都の祇園祭とあわせて有名なものになりました。平成2年4月には国際花と緑の博覧会で再びうちわ祭が大阪の地に登場しました。この他にも、昭和48年10月東京銀座の『第1回銀座祭』昭和51年7月神宮外苑の『日本のまつり』昭和55年8月ハワイ・ホノルルの『第1回まつりインハワイ』などと、国内外にうちわ祭は紹介されました。
 最近では、平成6年7月に京都平安建都1200年祭の全国祇園山笠巡行にも出場しました。また、平成15年11月に行われた江戸400年祭(江戸天下祭)においても、元々東京神田祭で使用されていた第二本町区の山車が参加し、百十数年ぶりに言わば里帰りという形で東京の街中を練り歩きました。

この様な歴史を経て、うちわ祭は現在、「川越まつり」「秩父夜祭」と並ぶ埼玉の三大まつりや、愛知県津島と群馬県世良田(せらだ)と並ぶ三大八坂祭(天王さま)の一つに数えられています。そして、「関東一の祇園」でもあり、全国から毎年70余万人の見物客が訪れ賑わいます。
 

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